ちょっとした愚痴
もうだいぶ、ほとぼりも冷めたと思うので、そろそろ書いてもいいかなぁ…。
僕は、前に、とある人の古文現代語訳にケチを付けたことがあった。これである。
そのブログ記事に反応して、とある人が反論というわけでもないが、記事を書いた。その記事とは、上記の記事を受けて「じゃあ、古文現代語訳の本を見ながら、自分なりに言葉を更に翻訳して書いてみよう」という記事だった。
その人の行為を見ながら、「なぜ、そもそも僕が問題にしていた"あの人"がこうも間違った現代語訳を平気で書いてしまったのか」ということに気がついたので、そのことを書こうと思う。
まあ、結論から言ってしまうと、おそらく「たられば氏」も、同じようなことをやっていたのだろうと思うのだ。ようするに「既存の現代語訳文」を更に、自分の言葉で翻訳するという行為を行っていたのだと思われる。
だから、翻訳文にヘンテコな間違いがあったのだ。
おそらくだが、たられば氏が参考にした翻訳文には「不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき」の部分を「最初は笑われ、けなされ、屈辱を味わった」とも捉えられるような(しかし、ちゃんと「不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき」にも対応している)文章に訳してあったのだろう。これはプロの書き手ならばやりかねないことだ。
”微妙なニュアンス”の部分にほんの少し曲解というか、極端な解釈を混ぜて分かりやすくしたのだと思われる。特に瑕瑾(キズ)は、「通じる人には通じるが通じない人には通じない」ニュアンスの微妙な言葉だ。これをーー例えばたられば氏が参考にした翻訳文では「貶されるようなところもあった」などと訳していたのではないだろうか。「貶されるようなキズ、欠点」もあったと。
その翻訳文を読んで、件の人は更に「貶される」の部分だけを、掬い取って上記のような文章にしてしまった。その可能性は高い。
よくあることである。伝言ゲーム的に「文章を更に、別の文章」に置き換えた結果、元の人の意図とは、まったく違うことが、あたかも事実であるかのように扱われる、ということは。
よく、マスメディアで起きている「自分の意図と違うことが書いてある」という現象も、何割かは上記のような、伝言ゲーム的な歪みが生じているからだろう。おそらくは、それと同じようなことをたられば氏はやってしまった。
だから、「翻訳した文章をさらに翻訳する」という行為はやるべきではないのである。このように、絶対に文意が歪むからである。
どうしてもやりたいのならば「翻訳文だけを読んでわかった気になる」のではなく、原文の意味等をなるべく「解説等をキチンと読み、翻訳の意図を理解し、ときには原文も自分なりに勉強しながら」キッチリと原文の意味を理解してから、翻訳するべきなのだ。
というか、もっと根本的なことを言ってしまえば、ごくごくシンプルな結論が出る。
「どんなときでも、自分のやろうとしていることが間違っていないか、念のため調べるのは大事なこと」
それだけの話だ。
少なくとも僕は、上記の記事を書くために、いろんなことを「念のため調べている」
分からない部分は辞書を引いたりして「入念に調べた上で書いている」のだ。僕は完璧超人じゃない。それどころか、馬鹿である。だからこそ、自分の考えに疑念を抱いて、キチンと調べる。入念に調べる。
それを手抜いてしまうと、上記のような間違いが起こる。
ただ、それだけの話なのだ。