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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

感心してるところ悪いが、その徒然草の現代語訳は間違っている。

 このツイート、絵を描く人や様々に共有され、リツイートされて「関心しました!」的な反応を生んでいるものなのだが、水を指すようで悪いが、この現代語訳は結構間違っている。

 ツイートのリンク先にもあるとおり、原文は、 

能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

 

 ――徒然草 第百五十段

 

 なわけだが、ぶっちゃけ、原文を読んでみれば分かるが「古語」どころか、「現代語」をそもそも理解できてないようなレベルの間違いが散見される、相当アレな訳文である。なぜ、こんなものを堂々と人に見せて平然としているのかよく分からない。

 全体的にアレなのだが、特に酷いのは「>特別な才能がなくても上達できる。道を踏み外したり、我流に固執することもないだろう。そのまま練習し続けていれば、そういう態度をバカにしていた人たちを遙かに超えて、達人になっていく。人間的にも成長するし、周囲からの尊敬も得られる。」と「>いまは「天下に並ぶ者なし」と言われている人でも、最初は笑われ、けなされ、屈辱を味わった。」の部分だ。

 この二つの部分は現代語訳ではない。ただの、戸田奈津子的な超訳である。

目立つ問題点を箇条書きにする。

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・「>天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば」は、現代語にしたってほとんどそのまま「天才的な勘がなかったとしても、道に立ち止まらず、迷わずに、年を送っていけば、」で十分だろう。「なづむ=泥む」は「滞る、停滞する」という意味だ。「濫り=みだり」は、まんま現代でも「みだり」と使われているのでだいたい想像がつくだろう。
 ・「>上達できる」とか「>我流に固執することもないだろう」とかは、そもそも、原文にそんなことを言っている箇所はない。これは、勝手な創作だ。特に「我流に~」は酷い。これのせいで文章全体の印象が変わってしまっている。
  ・「>そういう態度をバカにしていた人たちを遙かに超えて」の部分も、これまた原文にそんなことを言ってる文章がない。勝手にこの人が付け足したセンスのない中二病文章である。
   ・「>堪能の嗜まざるよりは」の部分を超訳したと思われるが、堪能は「学問や芸事を突き詰めた境地」とか、まあそんな意味である。「嗜む=たしなむ」は、まんま現代でもそう意味が変わらずに使われているので、解説はいらないだろう。
    ・つまり、「堪能の嗜まざるよりは」とは「芸事を極めていない人よりは」という意味合いだ。全然馬鹿にしている人たちのこと”だけ”を指しているわけではない。


・しかも、原文の「>双なき名を得る事なり」の部分を勝手に削除しているのも酷い。
 ・埋め合わせで、その後に「>いまは「天下に並ぶ者なし」と言われている人でも」と入れているが、「天下ものの上手」は、「天下に並ぶものなし」とは少し意味が違うだろう。


・「>最初は笑われ、けなされ、屈辱を味わった。」も原文を無視して、勝手に文章を作っている部分だ。
 ・「>不堪の聞え」は現代語に置き換えるならば「『未熟だ』という評価」と訳すべきだし「>無下の瑕瑾」に至っては、そもそもこの言葉、各々の単語自体は現代でも時折使われているはずなんだが…辞書で調べれば分かるのに…なんでやんねーんだろ?
  ・瑕瑾は「その作品にある良くない部分(=欠陥)」のことだ。無下は「まったく、間違いなく」という強調語である。
   ・つまり、「>始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。」は「始めは未熟だという評価もあったし、決定的な欠陥とかもあったりした」という意味だ。
    ・「>屈辱を味わってきた」――ってそんなことは原文に書いてない。この人の勝手な創作である。例の中二病文章である。

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 で、いろいろ僕が間違ってる部分に添削を入れて現代語(ちょいネット語も交えつつ…)に書き直してみた。書きなおし部分には青字を使っている。

 これから芸事を身につけようとする人は、とかく「ヘタクソなうちは誰にも見せたくない。こっそり練習して、ある程度見られるようになってから披露するのがカッコいい」と言うものだけど、そういうことを言っている人が最終的にモノになった例はひとつもない。


 まだ未熟でヘタクソな頃から、上手くてベテランな人たちに混ざり、バカにされようと笑われようと恥ずかしがらないで、気にしないで、才能がなかったとしても、立ち止まらず、踏み外すこともなく、年を送っていけば、最終的に、その道の極みを嗜まなかった人よりも上の立ち場になれるし、しかも人望も備わって、多くの人に尊敬され、天下一の名声も得られるようになるものだ。

 

 ”神レベル”に上手いと言われている人でも、最初は未熟だという評価を受けてきたし、実際、作品には決定的な欠陥とかもあったりした。それでも、道の掟に従い、これを重んじて、遊びもしない人が、その道のプロとして、様々な人の先生となってきたのだ。これはどのジャンルでも変わらない話だ。

 

 ――徒然草 第百五十段 ハルトライ訳

 

 どうだろうか。だいぶ、文章の印象が変わらないだろうか。実はこの文章「人に混じって、学んだほうが上達できる」と言っているのではなく「周りのものに惑わされないで精進しろ」と言っている文章であることに気がつくと思う。

 そもそも、最初の段にある「これから芸事を身につけようとする人は~」の部分、人に見せないことを問題視しているわけではないのだ。もうちょっと上手くなってから人に見せようとか考えている自意識過剰なところを問題視しているのだ。

「上手くなってから、上手くなってから」と言っている人は周りの目を気にしているから、「上手くなってから~」などと言い出してしまう。そういう余計な自意識――周りの目を気にしているところ――を、やめろと言っているのだ。だから、上手い人達に混じって馬鹿にされて、その無駄なプライドをへし折られてこい、と。

 件の訳は、そういうところから間違っている訳文である。

 

 以上。