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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

好きなアニメは学園戦記ムリョウ(4)

なのである

 


学園戦記ムリョウ:オフィシャルサイト

 

 

「なのである」始まりとはなんぞと思うかもしれないけれど、ともかくとして、まあ、大好きなのである。学園戦記ムリョウが。中学生の頃から見て以来、自分の人生観と世界観と世間観が変わるほどの影響を受けてしまってからというもの、ずっとこの作品のファンである。

 学園戦記ムリョウは素晴らしい。どこが素晴らしいかというのを事細かく挙げるといろんな要素が挙がってしまうのだが、分かりやすく言って「日常系とSFの融合」の先駆である。日常系とSFを混ぜるという手法は最近でもちょいちょいと目立つモノになっている。断言できるが、それの先駆はこれである。

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 と学園戦記ムリョウの魅力について語ってきたわけだが。

 

htl.hateblo.jp

 

 今回は、今までの回とはちょっとテイストが異なることを予告しておく。今回取り上げるのは、学園戦記ムリョウの「主要キャラクターの魅力について」である。前回、主要でないキャラクターの魅力について存分に語りつくしたが、今回は、そこであえて触れなかった「主要キャラクターたちの魅力」について触れていく。

 

 さて、学園戦記ムリョウの主要キャラクターたちは、極めて個性的だ。もちろん、これは前回でも取り上げたとおり、主要キャラクター以外も十分に個性的である学園戦記ムリョウの世界では、ある意味で当たり前のことなのだ。だが、脇役のキャラクターと主要キャラクターの間には、大きな隔たりがあるのも事実。

 主要キャラクターたちは、だいたいにして「個性的」なうえに更に「+α、+β」な要素がいくつか付いていることが多いのだ。今回はこの「+α、+β」な部分について取り上げていこう。

 

 まず、主要キャラクターたちはだいたいが、実は「類型」に沿って作られている節がある。第一回目で語ったように、村田始という主人公だけは、類型がほぼ存在していない特殊な主人公なのだが、それ以外の主要キャラクターたちは、比較的「類型」を基礎地にして作られているのだ。

 たとえば、学園戦記ムリョウの生徒会のメンバー「津守八葉、守山那由多、守口京一、守機瞬、峯尾晴美」の五人は、実はメンバー構成が「ガッチャマン」と”ほぼ”同じになっている。守口京一を大鷲の健とすれば、体格の大きい津守八葉はみみずくの竜、背の小さい守機瞬は燕の甚平、京一に想いを寄せている峯尾晴美は白鳥のジュン、といった具合に当てはめることができる。

 ただ、学園戦記ムリョウは、京一はリーダーではなく、生徒会会長は津守八葉であり、また、実際にシングウに(正義のヒーローに)変身できるのは、ガッチャマンの構図には少し当てはまらない守山那由多であったりとズレがあるものの、大体において、類型のとおりとなっている。

 このように、主人公の周りにいる主要キャラクターたちは、かなり類型的なのだ。村田始とよく行動している親友たちも、出っ歯(ジロウ)、背が大きい(アツシ)、パソコンなどに詳しい優等生(トシオ)と、藤子・F・不二雄のアニメにでも出てきそうなほどの分かりやすい類型的なキャラクターたちが登場している。

 ただ、どのキャラクターも類型から、少し外れた状態になっており、その類型に沿う度合いと、沿わない度合いのバランスは学園戦記ムリョウならではのものとなっている。

 

 また、類型を使用している以外に、もう一つ言ってしまうと、学園戦記ムリョウの主要キャラクターのうち、特に天網の民(シングウに関与している一族)やその関係者に当たる者たちは、「日本の政治の縮図」になっているという特色も存在している。

 例えば、前にも挙げた生徒会のメンバーだが、実は各人それぞれ「政治的主張が異なっている」のだ。

 一番わかり易いのは、守山那由多である。彼女はどう見ても左翼である。基本的に争いには反対だし、争いを許容している現行の体制を許せず、自分がもっと力を持つようになったら、「今の体制は全てやめましょう」と言うつもりでいる。極めて、分かりやすく、日本の左派のメタファーとなっているのだ。

 対し、生徒会長でもある、津守八葉は右翼だ。それも旧来型の保守だ。基本的に争いに賛成ではないが、自分の土地や周囲を守るためならば許容することにしているし、一度、ハッキリと自分たちの土地で勝手に暴れている宇宙人たちを「迷惑だ」と言い切ったこともある。

 更に、守機瞬も右翼ではあるが八葉とはまた違う、改革派の保守になっている

 

 このように、天網の民内部の様子は、日本内部の政治のメタファーとして読み解けるところがあったりする。作品自体の雰囲気が牧歌的なので分かりづらいが、実際のところは、学園戦記ムリョウは日常の横で絶えず、政治的な思惑が常に飛び交い続けているアニメなのだ。

 そのような視点でもう一度、主要キャラクターたちを見てみると新しい魅力に気がつけるはずだ。学園戦記ムリョウの日常が、いわゆる日常系のアニメの”日常”と大きく違うところは、このように日常が密接に政治と繋がっているところだ。

 この政治的な要素は、監督が意図して入れたことなのか、イマイチはっきりしていない。ただ、結果として、それは主要キャラクターたちに奥深い魅力を与えるものとして機能しているし、現にそういう見方でこの作品を見れることもまた、学園戦記ムリョウの魅力の一つなのだ。