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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

真実と作品と感想の関係

 僕からすれば「作品というのは、真実の一部を切り取ったもの」だ。ただし、どの作品も同じくらいに、真実を切り取っているわけではない。ひどい作品というのは大抵、真実を少ししか切り取らず、残りを自分に都合の良い妄想で埋め尽くしているもののことを指す。少ししか真実を切り取れていない作品にどんな深い読みをしようが全て「妄想」を読み込んでいるだけで、大した意味などない。周りの人からすれば「だからなに?」「で?」「ふーん。自分大好きなんだね」って、そんな言葉で終わりな話。批評や感想というのは、作品が切り取った「真実」がどれだけのもので、具体的にどういったもので、そして、どこまで深く「真実」にたどり着いているかをその人なりに判定する行為だ。で、作品と同様に感想や批評にも、また「作品に含まれていた真実」をほとんど見出せず「自分の妄想だけで埋めているもの」があったりして、これを酷い感想・批評という。僕の中ではそれぞれはそういう定義になっている。褒めようが褒めまいが作品が切り取った真実を見いだせないようなら酷い感想だ。結果、作品が切り取った真実を、見極めた結果、そんなに真実が入ってないとして酷評。真実が多く入っているとして好評を出すのだ。

 「感想・批評は価値観次第、どんな作品も読み方によっては面白くなる」などという相対主義な定義はありえない。確かに見向きによって、多少なりとも人には見える真実、見えない真実の差がある。しかし、その差だって限度がある。ましてや、人によって多少見え方が変わるからといって、世界にある真実そのものが変わることは決してない。僕は、あくまで世の中にいる人間は、全員、「真実」の存在に感づいていて、それと向き合ったり、それに目をそらしたりしている状態で存在している。そうじゃないと日常的なレベルでさえ説明がつかない場面が多すぎる。で、だからこそ、いかに作品は「真実」を切り取り、感想や批評は「切り取られた真実」を見出し、その量を計って「良し悪し」を考えられるかが、とても重要な事なのだ。真実をそうやって切り取って、見出し続ければ、真実と向き合う人が増えるからだ。