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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

一枚。

最近、なぜか、手書きのGIFアニメを作るのにハマっていて、イラストなんてろくすっぽ描いてなかったけれども、そんな僕がサラッとつくったイラストがこちら。

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キャラクターの周りをぐるぐるとカメラが動いているアニメをつくりたくて、

それをひたすら練習していたら、人体の立体への理解度が上がったらしく、

以前にも増して、自由に絵が描けるようになった。煽り俯瞰、寝そべる人でもなんでもござれ。どれでもサラッと描ける描ける。楽しいほどに。

あと、エフェクトを描く楽しさにも目覚めたせいもあってか、水の表現や髪の表現もかなり上手くなった気がするなぁ。

一枚。

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 いやー、しばらくブログの更新止めてたけど、ようやく書き上がったよ…。

 ここのところ、ずっと描き込んでいた一枚。これのせいで、他のことに手を付けられなかったのだ。ちなみに、自分のPCに入れる壁紙用に作った。なので、元のファイルは7016×4961とかいう、アホみたいに巨大なサイズで描いてあったりする。しかし、まあ、だいぶ良い仕上がりになったな。うん。

 

7月に読んだ本

2016年7月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:1633ページ
ナイス数:15ナイス

いやー、とうとう、7月はなにも記事を書かないままになってしまった!

そして、今月も全然小説を読めていない。でも、平山夢明だけはちゃっかりと読んでいるという。


影王の都 (創元推理文庫)影王の都 (創元推理文庫)感想
イムループの扱いが酷い。急に終わりあたりになって「実はこの作品、設定上、時間ループしてたんだぜ」「な、なんだってー?!」と言い出すだけ。一応、いろいろと話の時間軸を錯綜させたりしてはいるが、これが、単に下手くそな群像劇にしか読めず、作品内でどこかとどこかが巧妙にループしてて……などという気の利いた構成などは一切していない。そもそもよーく読むと分かるのだが、厳密にはこれタイムループではない。肝心のファンタジー描写も……。舞台が砂漠なだけで千一夜物語がどうのとか言ってる選考委員の寸評には笑った。
読了日:7月15日 著者:羽角曜
機動戦士ガンダムサンダーボルト 1 (ビッグコミックススペシャル)機動戦士ガンダムサンダーボルト 1 (ビッグコミックススペシャル)
読了日:7月9日 著者:太田垣康男,サンライズ
ランポ 4―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)ランポ 4―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)
読了日:7月6日 著者:上山徹郎
ランポ 3―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)ランポ 3―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)
読了日:7月6日 著者:上山徹郎
ランポ 2―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)ランポ 2―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)
読了日:7月6日 著者:上山徹郎
ランポ 1―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)ランポ 1―The hypersonic boy (てんとう虫コミックススペシャル)
読了日:7月6日 著者:上山徹郎
ヤギより上、猿より下ヤギより上、猿より下感想
今までどおり、全開の平山節。シュールなほどに粗野でどん底な人々を描きつつ、そこに異常なまでのグロテスクとエロティシズムを混ぜていく部分は今までのまま。だというのに、どこか今までと違う感触を覚える短編集。特に表題作以外は、ある種、哲学的でさえあるような不思議なテーマが見え隠れしていて、読み終えるとどれも「人間は不思議だ」と思えてくるのだ。…ま、それらの感慨も表題作の、爆笑必至な内容に全て吹き飛ばされてしまうのだが。最後に一言「平山先生、『センテンススプリング砲』と『はぁと』って……言いたかっただけでしょ…」
読了日:7月2日 著者:平山夢明

読書メーター

6月に読んだ本

2016年6月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:2026ページ
ナイス数:16ナイス

6月も読んだ読んだ…と言いつつ、大半が漫画。うーん。いや、面白そうな小説は必ず探って読むことにしてんだけどもねぇ…。



時計仕掛けのりんご (手塚治虫漫画全集)時計仕掛けのりんご (手塚治虫漫画全集)感想
表面的には他の手塚治虫短編集と同じようなテーマ・同じような思想を持っているように見えて、よく読み解くとこれがなんだか違う。そんな短編集。特に最後の短編「帰還者」のオチは、良い意味で酷いオチでちょっと笑えてしまう。…というか、手塚先生、あなたこのオチって禁止してませんでしたっけ?「バイパスの夜」は某漫画家が、シチュエーションを丸々パクったことで有名な一編。表題作は当然、あの小説が元ネタだけど実は作品の雰囲気はリチャード・マシスンに近いところがあって、マシスン好きにオススメの一作。
読了日:6月30日 著者:手塚治虫
逢はなくもあやし (集英社文庫)逢はなくもあやし (集英社文庫)感想
うーん。かつての面白さが全くない。というか、なんだろう。文章の上手い素人が、物語を練らないまま作ってしまった感がある。つまり、新人賞でこれなら「まあ、伸びしろあるんじゃないの?」って思えるが……というレベル。
読了日:6月30日 著者:坂東眞砂子
村山聖名局譜村山聖名局譜感想
こんなワイワイと語り合う、対談形式の名局解説書も珍しい。というか、そんな解説書は、おそらくこれしかないはず。正直、将棋を全く知らない人でも読めちゃうんじゃないかと思うほどのフランクさ。しかし、内容は村山聖の名局についてであり、まあ濃い一冊。先崎学八段に自戦記の代筆を依頼した結果、まさか羽生善治三冠(現)がくっついてくるとは亡くなられた村山聖九段も想像してなかっただろう。
読了日:6月23日 著者:羽生善治,先崎学
科学の発見科学の発見感想
科学が成立してから、どのように発展してきたかの歴史を、ただ語るだけに至らず「いかに、手間暇をかけまくって、歴史も隔てて、様々な論争を経てなお、偉人達の功績が間違っているのか、現代科学にとって意味がなかったのか。あるいは誰の功績に意味があったのか」というところまで語り尽くし、いかに科学が、この世界の諸法則が理解困難なものであったか、今もなお困難なのかを実感する本。個人的には突然、DISられるベーコンとデカルトに爆笑した。イスラム科学と現代科学の関係性も興味深い。
読了日:6月20日 著者:スティーヴンワインバーグ,大栗博司
機動戦士ガンダムSEED DESTINY(4)<完> (KCデラックス)機動戦士ガンダムSEED DESTINY(4)<完> (KCデラックス)
読了日:6月17日 著者:高山瑞穂
機動戦士ガンダムSEED DESTINY(3) (KCデラックス)機動戦士ガンダムSEED DESTINY(3) (KCデラックス)
読了日:6月17日 著者:高山瑞穂
機動戦士ガンダムSEED DESTINY(2) (KCデラックス)機動戦士ガンダムSEED DESTINY(2) (KCデラックス)
読了日:6月17日 著者:高山端穂
機動戦士ガンダムSEED DESTINY(1) (KCデラックス)機動戦士ガンダムSEED DESTINY(1) (KCデラックス)
読了日:6月17日 著者:高山瑞穂
植物たちの私生活植物たちの私生活感想
〈未だに文学が銅の鏡で見るようにぼんやりとしています。顔と顔を合わせるときが来るでしょうか? もしかして永遠に来ないかもしれません。どうせ銅の鏡で見るのが文学でしょうから〉 最高! まるで探偵小説のような書き出しでありながら、実は家族小説という。この始まりから相当に面白い。しかも、その家族がだんだんと神話性というか、神秘性のようなものを帯びてくるのだ。そして、なぜ探偵小説のような書き出しで始まるのか。なぜ神秘性を帯び始めるのか。それら全てが上記の作者あとがきで綺麗に示される。
読了日:6月11日 著者:李承雨

読書メーター

絵を描き始めて、一年になる。

ついに、画歴も一年に到達である。

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はい。一周年を記念して1枚――いや、嘘である。

ツイッターで「#絵には人柄が表れる」とかいうタグが流行っていたので、便乗目的でパパッと描き上げた一作である。

おそらく、大体の人が「前回や前々回の絵から、一体、何があったんだよ!?」と思うかもしれないが、特別なことは何一つしていない。普通に人のメイキング動画とかを見て、普段の私生活で物を観察し、覚え、暇を見つけては絵の練習をして、本をたくさん読んだ。それを繰り返したら、なんか、こうなっていた。

 

自分のカクヨムの宣伝

 カクヨムの小説、相変わらずスローペースだが、書き進んでいるので一応、このブログで宣伝しようと思う。とはいえ、ただ、べたっとタイトルだけ貼ってしまうのは、つまらない。なので、今回は自分の小説に、いつの間にか付いていた三ツ星レビューを貼ろうと思う。

kakuyomu.jp

 簡単に引用すると「>とにかく、淡々としているんです。」「>どこか緊張感のないゆる~い空気が満ちているのに、丁寧に作り込まれたキャラクター、世界観が確かにここにあります」という、大きな評価だ。

 こう書かれると、気になる人もいるのではないだろうか。

 なにその小説?と。

 ちなみに、僕自身がこの小説に付けているタグは「魔法少女」「ファンタジー」「 コメディ」「 不思議」「カクヨムオンリー」「魔法」「ホラー」である。ますます気になる人もいるのではないだろうか。まあ、この小説、いろいろと展開する予定なのである。

 ある種、上記の「ゆる~い」というレビューを、かなり裏切ることになると思う。

 まあ、そこらへんも含めて乞うご期待!

 

以上、宣伝でした。じゃ。

長く語ります。

 今日、ツイッターのTLでこんな記事を見かけた。

realsound.jp

 この記事。ツイートした人曰く、D♯という調性表記に違和感を感じた、とのことだそうだ。普通はE♭なのではないか、というのがその人の主張らしい。確かに、基本的な音楽の教科書には、普通はE♭で表記されている。だから、D♯はおかしいというのだ。

 うーん。

 いや、これ実はとてもむずかしい問題なのである。それなりに音楽を学んでいる僕だから言えるが、D♯という表記でもおかしいことはない。というか、ケースによってはD♯という調性とE♭という調性では、まったく話が違うこともあるのだ。

 なぜ、そんなことが言えるのかというと簡単で、よく、巷の認識では「D♯はE♭と同じ音」という認識がまかり通っているが、これ、厳密には間違いなのである。D♯とE♭は違う音だ。

 

 少し話が逸れるが、音楽を学んでいると中級者くらいの頃から、ダブルシャープ、ダブルフラット、という問題にぶち当たるようになるが常だと思う。半音を2つ上げる、半音を2つ下げる、という表記の不可解さに引っかかるのである。

 半音2つ変えるのって、それは、一音上げるのと同じじゃないかということだ。あるいはミ♯という表記などに引っかかるのだ。それは、ファじゃないのか、と。

 そして、なぜ、そんなダブルシャープなんて(ちなみに余談だが、音楽上ではトリプルシャープなどの表記も、普通にありえたりする)表記があるのか、という理由を聞いたときに、音楽習得者は学ぶのだ。半音を二回上げるのと、全音上げるのは、実は音が違うということに。

 まあ、ヴァイオリン等をやっている人からすれば「そんなクソ当たり前のこと、知ってて当然だろ!」ってな、具合だったりするんだが、鍵盤とかギターとか音階の律が予め固定されている人たちからすると、この事実は超気づきにくいことだったりするのである。

 で、こういう問題に引っかかってしまう人がたまに現れる。

 

 まず、確実に認識して欲しいのだが、基本的な音階である、十二音階は「人間が便宜的に作った、ものすごくちゃらんぽらんなルール」なのだ。実は十二音階で、半音半音ずつ上がるとき、正確に等間隔で音が上がっている――ということは、どうやっても絶対にありえない。

 冷静に考えてほしい。よく440ヘルツは基準の音でA=ラだという、トリビアというか、キャバクラ的な場所で使える小話があると思う。で、その倍の音(880ヘルツ)が一オクターブ上の音のA=ラだという話も聞いたことある人が多いのではないだろうか。

 いわゆる、十二音階とは、この「一オクターブの間」を十二個の半音で区切ったもののことをいう。十二の半音で区切るから十二音階。

 この時点で、少し頭が働く人は言ってることがおかしいことに気づくと思う。

 880-440=440。

 440(=11の倍数)を十二等分するって…。

 そう。もちろん、どうやっても、できるわけがない。

 それを、無理くりに区切って成立させているのが、十二音階なのだ。どうやって成立させるかって……決まってるだろう。それぞれの音を正確に等間隔で分けなかったり、一オクターブ上の音を正確な一オクターブ上からは少しズレた音に変えたり……と、いろいろぐちゃぐちゃにして、成立させているのだ。

 (ちなみに、純正律でも平均律でもぐちゃぐちゃなのは、一緒。ただ、ぐちゃぐちゃにさせる箇所が違う)

 

 ここまで書けば、E♭≠D♯ということになる、理由が分かると思う。”同じ数値分”上げた音、下げた音、それぞれ一緒になるはずがないのだ。だって、そもそも、レとミの音の間がきっちり半音2つ分、開いていないのだもの。ズレてるのだもの。

 だから、D♯とルートにしたスケールと、E♭をルートにしたスケールも当然、実は正確には、それぞれ音が違う。もちろん、素人が聞いても分からないレベルの差だが――といいつつも、実はこの微妙な違い、素人もちゃんと聞き取ってはいたりするのである。

 「なんか、明るめに聞こえる。暗めに聞こえる」という「なんか、こんな感じがする」という気分的な認識として、微妙な違いを聞き取っていたりするのだ。なので、ポップスでも、D♯という表記は大事である。というか、和音を気にするポップスやジャズこそ、こういう表記は大事である。

 むしろ、和音を気にしない、なおかつ、楽譜表記にこだわるクラシック系のほうがE♭という表記で固定させようとすることが多いかもしれない。だが、それはあくまでクラシック畑の話。

 クラシックは、成立した時代的にそこをあんまり気にしない時代の音楽だったとも言える。和音も、全然高度ではないものを使っている(現代的なのは、当然、例外として)。だから、その表記を気にする必要性がない。

 だが、いわゆる巷の大衆音楽は、往々にしてジャズ等の影響を受けて、調性や和音がかなり高度化しているので、これを気にしないと、たまに大変なことになるのである。このD♯という調性表記もその結果によって、生み出されたものなのだ。

 

 たっぷり語ってしまったが、そういうことなのだ。