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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

掌編:嘘つきは泥棒の始まり

 自分を理解してくれる人がきっと世界のどこかにはいて、だからこそ、ニッチな方法論で、これからの世界は自分の収入を得ることが出来る(――嘘つきは泥棒の始まり)のです。

 当然ながら、僕はそんなもの信じているはずがない(――嘘つきは泥棒の始まり)のだけど。

 それでも、僕がつらつらと小さい文章を綴るのは、醜い自己承認要求がさせている、極めて知性に欠けた行いである。

 同時に、こうやって自己を過度に貶すのは、防衛本能の働きであり、これによって、人からの批判を避けているのだ。

 では、避けないようにしよう。さあ、みんな、僕を叩いてくれ。

 僕だって心の片隅に、それくらいの覚悟ならば残っている(――嘘つきは泥棒の始まり)と信じている(――嘘つきは泥棒の始まり)のだ。

 だから、さあ。お願いだ。批判をしてくれないか。正直に言えば、批判されれば傷つくのは当然のことだ。

 しかし、僕は甘んじて受け入れたい(――嘘つきは泥棒の始まり)と思っている(――嘘つきは泥棒の始まり)。

 僕は両手を広げて(――嘘つきは泥棒の始まり)、みんなの前に(――嘘つきは泥棒の始まり)立とう(――嘘つきは泥棒の始まり)。

 殆どの人が、僕になど注目していないかもしれない。

 事実、あまり、人目に晒されていないようだ。

 なんて悲劇(――嘘つきは泥棒の始まり)なんだろう(――嘘つきは泥棒の始まり)。喜劇(――嘘つきは泥棒の始まり)とも言えるかもしれない(――嘘つきは泥棒の始まり)。

 注目してもらえたら、喜ばしいことに(――嘘つきは泥棒の始まり)批判だって貰える。

 僕にはそれすらない。

 だからこそ、(――嘘つきは泥棒の始まり)注目が欲しい(――嘘つきは泥棒の始まり)と願っている(――嘘つきは泥棒の始まり)。だが、同時に注目されるのは(――嘘つきは泥棒の始まり)どこか怖い(――嘘つきは泥棒の始まり)。ジレンマに悩んでいる(――嘘つきは泥棒の始まり)。