問題が問題
ツイッターでなんとなくリストを眺めていたところ、こんなびっくりするようなページを見つけたので、ちょっと触れてみる。このページを発見した人、よく見つけたなという感じだが、なによりも驚くのは、どう考えてもイジメを助長しているとしか思えない漫画の内容だろう。
おそらくは法務省的には(というか、お役人的には、というべきか?)「ガキ大将たちが気弱な少年をいじめているのを、クラス全員で協力して止める」という、昔の学校観と共同体幻想丸出しで、この感動的なストーリーをつくったのかもしれない。
しかし、結果、生み出された漫画は、むしろ、「いじめの構造」の肯定をしてしまっているという「(ページ全体をひっくるめて)なんとも皮肉げな戯画」となった。
そういうわけで、ツイッターでも話題になったわけだ。
しかし、この話題によって、実はある一つのとても嫌な真実が浮かび上がっていることにも着目しなければなるまい。「いじめ」という問題を、生徒間で平穏に解決させるのは不可能だという、とてつもない残酷な事実だ。
この漫画が意図せずに示してしまったように、いじめという問題を生徒間で解決させようとすると、解決させる側――成敗する側が、より多い数で無理矢理、相手に言うことを聞かせて止めさせないと、止まらないのだ。
つまり、よりいじめを酷いいじめへ変えないと、それまでのいじめが止まらない。いじめという現象には、そんな嫌な構造が含まれている。
このため、いじめを止めるには、まず絶対的に大人の介入が必要なのだ。彼らが絶対に逆らえない”権威の介入”を必要としている。
生徒間で平穏に解決するには、「いじめている側が突然やめようと思う」とか「いじめられている側が突然いじめている側”全員”を片っ端からやっつけられるだけの力を持つ」などの、ほとんど、小説やアニメや映画でも”ご都合”と呼ばれてしまうレベルの、奇跡が必要だ。
だが、そんな奇跡は、ハッキリ言って存在していない。存在していない以上、生徒間で現実的に解決させようとなると、法務省が提示したような方法になるのはある意味で当然なのである。だからこそ、いじめは生徒間で解決することが不可能な問題なのだ。必ず、大人の介入が必要なのである。
僕ら、大人が逃げてないでいじめと向き合うべきなのだ。