パクリ騒動で分かる、音楽に蔓延る反知性主義
こんな記事が、ネット上で話題になっている。まあ、元事変のメンバーということもあって、まさにスノッブな、「私は音楽通」顔をしていたい人たちから反応もあって、なかなかに燃えているようなのだが……。
前々から思っていたが、この手の音楽の「パクリ騒動」って、恐ろしいほどの「素人裁判」で断罪されることが異常に多くないだろうか?
例えば、漫画のパクリ騒動、小説のパクリ騒動だともっと細かく、色んな人が画像を照らし合わせたりして検証をして、パクリだなんだとやる。(まあ、それはそれでおかしいときもあるのだが……)
つまり、多少は知性主義に則って、分析をした上で「これパクリじゃないですか!」という話になっていくわけなのだが、これがなぜか音楽ではまったくないのである。音楽における分析とは、簡単にして言うと「譜面に起こして、一つ一つを比較しているかどうか」ということだ。
なぜか音楽だけは世界的にも「聞いた"感じ"が似ているだけ」で断罪されてしまうのである。人間の、ましてや譜面も読めない、簡単なメロディさえも聞いても譜面に起こせない、ド素人たちの、"感じ"なんて錯覚だらけに決まっているのに、なぜこれに誰も疑問を持たないのか。
ちなみに、件の記事で挙げられている曲も、少なくとも、僕のような音楽教育をそれなりに受けてきたものからすると「"似ているが、それなりに違うフレーズ"が使われている」ことはすぐに分かる。例えばNISSANのCMの曲は冒頭のフレーズからして、リズムが全く違う。というか、そもそも拍子(か、あるいは譜割り)が違う。*1
しかし、記事中では、僕らからすると「それなりに違うもの」を「キーを変えただけ」と言ってしまっているのだ。これは恐ろしい現象だ。
確かに、この曲は、記事に挙げているとおりH ZETTRIOの曲を元ネタにしているのだろう。それは疑いようがない。しかし、あくまで「似ているように聞こえるまったく違う曲」に改変しているのだ。
それがパクリになるのかどうか、という問題にしたいのならば構わない。
元曲の人としては、そういう意味でツイートをしているのだろうと思われる。せっかく、自分たちで作ったフレーズが、微妙に格好悪く改変されているので「うーん」というところなのだろう。
まあ、確かにCMの曲のほうが、なんというかフレーズとして安直なので、それは分かる。*2
それならば分かるのだ。が、この記事では、それらの事実は無視され、素人による「オレ的に、そっくりパクったようにしか聞こえないから、きっと丸々盗作したんだ。だから干せ!」という裁判になってしまっている。
音楽では分析(知性)よりも、「素人のオレが思う感性(反知性)」が優先されることになっているのだ。まさに反知性主義である。
音楽は気づいてみるとここまで反知性主義が蔓延っていたのだ。
ファレル・ウィリアムスが裁判で負けるはずだわな。