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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

ちょっとした愚痴

 もうだいぶ、ほとぼりも冷めたと思うので、そろそろ書いてもいいかなぁ…。

 

 

 僕は、前に、とある人の古文現代語訳にケチを付けたことがあった。これである。

htl.hateblo.jp

そのブログ記事に反応して、とある人が反論というわけでもないが、記事を書いた。その記事とは、上記の記事を受けて「じゃあ、古文現代語訳の本を見ながら、自分なりに言葉を更に翻訳して書いてみよう」という記事だった。

 その人の行為を見ながら、「なぜ、そもそも僕が問題にしていた"あの人"がこうも間違った現代語訳を平気で書いてしまったのか」ということに気がついたので、そのことを書こうと思う。

 

 まあ、結論から言ってしまうと、おそらく「たられば氏」も、同じようなことをやっていたのだろうと思うのだ。ようするに「既存の現代語訳文」を更に、自分の言葉で翻訳するという行為を行っていたのだと思われる。

 だから、翻訳文にヘンテコな間違いがあったのだ。

 おそらくだが、たられば氏が参考にした翻訳文には「不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき」の部分を「最初は笑われ、けなされ、屈辱を味わった」とも捉えられるような(しかし、ちゃんと「不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき」にも対応している)文章に訳してあったのだろう。これはプロの書き手ならばやりかねないことだ。

 ”微妙なニュアンス”の部分にほんの少し曲解というか、極端な解釈を混ぜて分かりやすくしたのだと思われる。特に瑕瑾(キズ)は、「通じる人には通じるが通じない人には通じない」ニュアンスの微妙な言葉だ。これをーー例えばたられば氏が参考にした翻訳文では「貶されるようなところもあった」などと訳していたのではないだろうか。「貶されるようなキズ、欠点」もあったと。

 その翻訳文を読んで、件の人は更に「貶される」の部分だけを、掬い取って上記のような文章にしてしまった。その可能性は高い。

 

 よくあることである。伝言ゲーム的に「文章を更に、別の文章」に置き換えた結果、元の人の意図とは、まったく違うことが、あたかも事実であるかのように扱われる、ということは。

 よく、マスメディアで起きている「自分の意図と違うことが書いてある」という現象も、何割かは上記のような、伝言ゲーム的な歪みが生じているからだろう。おそらくは、それと同じようなことをたられば氏はやってしまった。

 

 

 だから、「翻訳した文章をさらに翻訳する」という行為はやるべきではないのである。このように、絶対に文意が歪むからである。

 どうしてもやりたいのならば「翻訳文だけを読んでわかった気になる」のではなく、原文の意味等をなるべく「解説等をキチンと読み、翻訳の意図を理解し、ときには原文も自分なりに勉強しながら」キッチリと原文の意味を理解してから、翻訳するべきなのだ。

 というか、もっと根本的なことを言ってしまえば、ごくごくシンプルな結論が出る。

 

「どんなときでも、自分のやろうとしていることが間違っていないか、念のため調べるのは大事なこと」

 

 それだけの話だ。

 少なくとも僕は、上記の記事を書くために、いろんなことを「念のため調べている」

 分からない部分は辞書を引いたりして「入念に調べた上で書いている」のだ。僕は完璧超人じゃない。それどころか、馬鹿である。だからこそ、自分の考えに疑念を抱いて、キチンと調べる。入念に調べる。

 それを手抜いてしまうと、上記のような間違いが起こる。

 ただ、それだけの話なのだ。

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