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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

好きなアニメは学園戦記ムリョウ(6)

なのである

 


学園戦記ムリョウ:オフィシャルサイト

 

 

「なのである」始まりとはなんぞと思うかもしれないけれど、ともかくとして、まあ、大好きなのである。学園戦記ムリョウが。中学生の頃から見て以来、自分の人生観と世界観と世間観が変わるほどの影響を受けてしまってからというもの、ずっとこの作品のファンである。

 学園戦記ムリョウは素晴らしい。どこが素晴らしいかというのを事細かく挙げるといろんな要素が挙がってしまうのだが、分かりやすく言って「日常系とSFの融合」の先駆である。日常系とSFを混ぜるという手法は最近でもちょいちょいと目立つモノになっている。断言できるが、それの先駆はこれである。

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 第六弾。相当に、前回よりも間を置いてしまったが、ようやく書き上がった。当然、前回の続きから早速話を進めていきたいと思うが、これはつまり、今回もネタバレが全開ということでもある。なので、やはり今回も学園戦記ムリョウをまだ見ていない人は、これより下を読むのは禁止である。

 あらかじめ、ご了承いただきたい。

 

 さて、前回、僕は魔法少女まどか☆マギカを引き合いに出しながら、学園戦記ムリョウは「言ってしまえば、途方もない力ではないものでハッピーエンドを生み出した稀有なアニメ」と称した。ここについて詳しく話を進めていこう。

 まず、途方もない力でハッピーエンドを生み出した、というのは、これは前回も言ったことなので言うまでもないかもしれないが、当然、最後の試練を解決させたのが、なんの力も持たない村田始だからだ。村田始には力が存在しない。

 まどかマギカのまどかが、どうにかハッピーエンドに持って行けたのは途方もない力を持っていたからだ。だからこそ、途方もない力で、宇宙の法則自体を書き換えることができた。

 

 村田始は違う。力が存在していない。その証拠に、村田始は、最後の試練に横入りするために数多くの人の力を借りている。天網の民の子どもたちの力を集めたうえで、守口京一に精神だけの状態にしてもらい、それを無量が受け止め、無量を箱舟にした形で、ようやく大気圏を抜け出して、那由多を助けに行った。

 それほどに一人では何も出来ない存在だ。

 

 しかし、それでも村田始は世界を救ってしまった。彼が世界を救えた理由はなんだったのだろうか。学園戦記ムリョウでは、終盤、ムゲンの巨大な力をコントロールできるか否かが問題の争点となる。地球人が、爆発的な勢いで一方的な方向へ流れている力を制御し、逆の方向へ向かわせられるようになるかどうかが問題となっていた。

 偶然にも前回の記事で引用した「物語にハッピーエンドをもたらす行為は、条理をねじ曲げ、黒を白と言い張って、宇宙の法則に逆行する途方もない力を要求するのだ( Fate/Zero Vol.1 あとがき)」という虚淵の世界観ともそんなに違わない状況だ。

 ジルトーシュは、バッドエンドへ向かおうとしている世界の流れを、逆の方向に変えてみろと言っているのだ。そして、村田始はそれをやってしまった。いや、正確には村田始一人がやったわけではない。

 村田始は力の流れに飲み込まれた守山那由多を救出する形で、力を制御しただけだ。というよりも、力を制御したのは守山那由多自身であり、村田始は、実はその手伝いをしただけである。彼一人がなにかを成し遂げたわけではない。 

 実は、これこそが村田始の「力ではない力」なのだ。

 

 と、太字で書かれても何のことやらと思うかもしれないが、村田始にある力とはつまり、上記のようなこと全体を指しているのだ。どういうことなのか、分かりやすく説明するために、ここで、また一旦、まどか☆マギカに立ち返って考えてみよう。

 

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 まどかたち、魔法少女はとてつもない力を持っている。特にまどかは、ほむらが繰り返し何度も時空を操作したせいで、力が強化され、絶大的なものとなっている。これが作品にハッピーエンドをもたらしたわけだ。だが、しかし、まどか☆マギカの魔法少女たちは、どんなに力を得ても、村田始の持っているものを得られていない。

 魔法少女たちは、とにかく誰もかれもが孤独なのだ。独り、心のなかに硬い決心を固めている子たちだ。そして、それぞれが、それぞれに抱える強い想い(正義であったり、愛であったり)によって、世界を変えていこうとする。その個人の意志を、超然的な全体の意思であるきゅうべぇが嘲笑い、彼女たちを試す。

 まどか☆マギカはそういう物語だ。

 

 ここで、脚本家・虚淵玄が実は一つだけ強く信じているものがあることに気がつくと思う。それは個人だ。虚淵玄はあれだけ酷薄な世界を描くくせ、そのわりに、彼は個人の感情や、個人の意志というものを絶対視している事がよく分かる。それが悲劇的な結末を迎えるにしろ、大団円的な結末を迎えるにしろ、とにかく、全てのトリガーは強固な個人の意志に委ねられる。

 

 実は、学園戦記ムリョウはここが最も違うのだ。学園戦記ムリョウは――佐藤竜雄監督は、個人をそこまで絶対視していない。もちろん、個人が思う”強い感情”というものに、同情的であったり、暖かい視線を向けたりはしているし、そういったものを容易に変えてはいけないと思っていることも、数々の描写から伺える。しかし、個人の意志によって世界が大きく変わるようなことは、まずない。

 むしろ、那由多のように強い”個人の意志”に囚われた人物では、世界に対してなにも出来ないような描写を多々入れている。作中では、そういった個人の感情にとらわれがちな人を「肝心なところで脳天気」とさえ表現していた。京一の父親を守れなかった晴美の父のエピソードや、その悲しみを受け継いでしまった晴美が「そこに囚われないことで力を発揮できた(大意)」とハッキリ言っている描写からもよく分かる。

 佐藤竜雄監督は個人の意志というものを、そこまでは絶対視していない。 

 

 だからこそ、村田始が主人公となっているのだ。監督自身が明言しているが、彼は「精神的に進化した人類の象徴」だ。ようするに、村田始個人は別になんにもすごくないのだ。すごいのは人類全体で、その”人類全体が持つようになったすごさ”を表している主人公なのである。

 事実、最後の試練を乗り越えた後、喜ぶ御統中学校の人々を見ながら刹那は「みんな、すごいね」と呟いた。

 そう、佐藤竜雄監督が信じているのは、みんななのである。

 

 とはいえ、ただ単に「みんなを信じていますから、みんな良い人達ですから。みんな同じ意志ですから」というだけでは性善説的な浅い話になってしまう。そして、学園戦記ムリョウはそういうものとは、明らかに違うものであるように見える。実際、作中では「一枚岩ではいきませんなぁ…」というセリフが象徴するように、組織の中が、社会の中が、いがみ合っていることが、何度も強調されてきた。

 作中でハッキリとは出てこないものの、宇宙人に対する抗議運動らしきものも、サラッと世界中継のモニターに映っているシーンがあったりする。一応、作中の世界は、宇宙人を受け入れる体制を地球は整えたということになっているのだが、やはり、反発はあるようなのだ。

 

 ただの性善説とも、集団的知性とも、集合的無意識とも言えない特殊な"みんな"なのである。この力を監督は信じているようなのだ。これは、他の作品を見ても明らかなことだ。

 佐藤竜雄監督の作品は、多くの場合「個人的な意志を強く持っている人たちが、協力しあうことで生まれる力」によって、最後の決戦が解決する流れになることが多い。最近の『モーレツ宇宙海賊』でも、劇場版、TV版どちらでもそのような描写が出てきたし、『TOKYOTRIBE2』でも同じような描写は伺える。その他、ほとんどのアニメで似たような描写は出てくるのだ。

 

 そして、この学園戦記ムリョウが、特に佐藤竜雄監督の信じている”みんな”というものが、ハッキリと形で示されている作品であるといえる。

 学園戦記ムリョウにおいて、終盤、御統中学校の生徒たちは、最初、村田始とムリョウが勝手に校舎へ忍び込み、次にタタカイビトである生徒会メンバーが「なにかあったときのために」とセキュリティキーを渡されたために、やってきて、それを受けてマモリビトの晴美が、他の天網の民を招集し、更に放送委員の稲垣ひかるが一般生徒にまで連絡を回して、関係ない生徒までやってくるようになり……といった形で、それぞれ、てんでバラバラな理由で、次々と中学校にやってきてしまう、というシーンがある。

 これが、監督の信じる"みんな"なのだ。

 それぞれ、まったく違う考えや動機を持ちながらも、しかし、結果的に多くの人が同じ行動をすることで、成り立つ特殊な"みんな"――集団的知性とも、集合的無意識とも、似ているようでハッキリと違う”新しい集団像”

 そして、そういう”みんな”が編み出す技術や、結果的に作り出した力は、どんな超人的な個人よりも強いのだ、と、佐藤竜雄監督はそう信じているのだ。そういう力の中に飛び込めば、村田始のような、なにも力のない少年でも世界を変えることが出来る。

 そう信じているのだ。

 

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 さて、本題に戻すが、村田始が世界を救った理由だ。どうして、彼は世界を救ってしまえたのか。

 これは簡単に本人たちの口から作中でも言及されている。村田始は、なぜ那由多を救えたのか。村田は、ジルトーシュにそう尋ねられて「前に、力の流れを感じたことがあって、その感触を覚えていたから、守山さんを探せると信じていた」という主旨のことを言うと、那由多とアイコンタクトを取って、那由多も「私も村田くんを探していた」と返す。

 ただ探していたことが重要なのではない。両方が同じように相手を探していたことが重要なのだ。まさに、この解決方法は、前述した”新しい集団像”と一致するものだ。まったく違う考えや動機――を持っていたかどうかは言及されていないが、ともかくとして、結果的に二人は同じ行動を取っていた。誰に強制されるわけでもなく、なんとなく、同じように探し合っていた。

 だから、二人は繋がったのだ。「なんだ、話は詰まるところただの愛か」と思われそうだが、そんな単純な話ではない。なぜなら、村田始は、それぞれがバラバラに想っていた”色んな人の想い”と一緒に宇宙へ飛び立っているからだ。村田始は、いろんな人の想いを自分を介して那由多に伝えたとも言える。

 そして、その繋がりの力が、巨大なムゲンという力を制御させた。

 

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 学園戦記ムリョウは、この「好きなアニメは学園戦記ムリョウ」シリーズでも述べたように、物語全体に、2001年宇宙の旅がオマージュされている作品だ。当然、テーマ的にも2001年宇宙の旅に近いものがある。だが、2001年宇宙の旅とは決定的に違う部分も存在する。

 人類の進化像が全く違うのだ。2001年宇宙の旅では、人類は精神体のような存在になって、肉体を超えるのだという考え方だった。そこには、ニーチェの超人思想も関与していて――言ってしまえば『超然的な個人に、人類が進化していくのだ』というのが考え方だった。

 この超然的な個人というのは、学園戦記ムリョウにおいては、ジルトーシュ等の勇者たちがそれにあたる存在となっている。彼らは存在としても、能力としても、超人だ。そんな彼らのうち、一部の勢力が、地球人と自分たちの間に生まれた一族の末裔に試練を与えることで、人類を進化させようとしていた。この状況から考えれば、勇者たちは地球人もまた自分たちと似たような、とてつもない力を持った存在に変貌させようとしていたことが伺える。

 だが、学園戦記ムリョウの導き出す進化像はそれとは違った。2001年宇宙の旅的な進化像ではなく――むしろ、それは作中で否定に近い形で覆され――地球人が得たのは、「新しい集団像」という特殊な形態を編み出すことで得た、考えもしなかった進化像なのだ。

 

 学園戦記ムリョウは、物語が始まった時点から、そういう”新しい集団像が出来上がっていくまでの物語”という巨大なテーマを抱えていて、そのために、アレだけの日常描写を必要としていたのだ。主役を描くだけでは、このような集団像が出来上がっていく過程は描けない。

 そして、そのテーマは、元から日常的な描写や人物ドラマの描写が得意だった佐藤竜雄監督の作家性と、相性が抜群であり、だからこそ、まさにこのアニメは、SF系でありながら日常を得意とした佐藤竜雄監督以外には描けないものなのだ。

 

 だから、このアニメはすごいのである。