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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

掌編:崇めよ、崇めよ

 とにかく、仰ぎ見ろと人は言う。なぜ、仰ぎ見るか(――ような信じるようなものをするか)、そこは重要ではない。仰ぎ見ることで救いがあると信じることがなによりも重要で、救われると信じることが核心で、自分を救ってくれる、そんな都合のいいもの(――が、存在してくれるの)だと信じることが、仰ぎ見るその人にとっての、大事なことだった。干してある白い布が、よく風に靡いている。あれさえ、人に言わせれば、対象とすることが出来る。ある特定の人種はそういうだろう。芯(――無形的な一つの超越)になにがあるかなど、誰も気にしていない。気にするとて、それは変わったで、まず社会では見かけないので、居ないのも同然だと見做して、無視(――だいたいの共同体においては、事実的な抹殺に等しい現象)をすればいい。透明ということで、納得すればいい。ともかくとして、人々は芯など気にしていない。気にしているのは、芯ではなく、芯が齎す、ごりやく(――利益)得こそが彼らの行動の源泉である。然し、彼らは同時に、得を己だけが受ける事は、己への恨みを買うことを知っている。ゆえに、上面は得を避けようとする。得を避ける、が得は取りたい。そのジレンマが齎した結果こそが、仰ぎ見よということだ。仰ぎ見る者の一部はこの事実に気づき、ゆえにそれを隠蔽するために、敬虔であろうと様々な考えや論理を積み上げた。しかし、ならば、元々無いほうがよっぽどマシだ。だが、出来てしまった限りは仕方ない。郷(――業)に入っては郷(――業)に従え。

 崇めよ、崇めよ(――くそくらえ、くそくらえ