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東杜来のブログです。月に1,2回の更新。

掌編:その名を…

 淋しい家に住んでいる。今年も冬を迎えて、ますます厳しい淋しさとなったこの家には、僕以外の誰も住んでは居ない。床がしんとしている。窓から差し込む白い光がありがたい。陽だまりの中に入っていると、体から少しだけ、空白感が抜けていく。温かみのせいだろうか。僕の中に何もないという、どうしようもなさが、少しだけ脱するのだ。

 柱の瘤を数えているような生活だ。普段の、仕事もなにもないときの僕である。部屋の四隅に剥きだした、この部屋を支える柱には歪んだ年輪が入っており、それが島のようになっていたり、ときどき節くれだったように、瘤を持っていた。年輪を目で追う。視線でなぞる。瘤にぶつかるたび、僕は「一つ、二つ、三つ」と口ずさむ。この手になにもないことが、それほど怖かったのだ。

 この手の、未来をときどき見透かすことがある。眠る前に、少し自慰をして心持ちが落ち着いて、全て洗って、そのままへたり込むように床に座ったとき、そして、両足をだらしなく伸ばしたとき、何気なく掌を見つめ、この掌がこれから追うであろう将来を予見する。一日後の掌には、なにも握られていない。十日後の掌には、なにも握られていない。百日後の掌には、なにも握られていない。千日後の掌には、なにも握られていない。万日後の掌には、なにも握られていない。億日後の掌は、もう掌自体がない。

 期限としては短く、服役としては長すぎる。

 陳腐な文句に、文句も言えず、ただ黙る。稚拙さには真実さえ宿らない。その悔しみを述べたところで、掌になにも握られていない未来は一つとして変わらない。現実は陳腐である。ありきたりだから、現実なのだろう。ただ、ありきたりと、頭から叩き割るには形は歪で、粗が目立つ。現実の粗に期待する愚かさを許して欲しいと乞う。

 恋を当分していない。そもそも、僕の人生を振り返って、あれが恋だと言える明確な体験が果たしてあったのかは分からない。空白の中に一つある。知らない名前を呼ぶ。誰でもいい。空白の名前を誰か。

 あの名のとおりに演じてくれないか。

 強い思いが駆け巡り、少し後で、なんて身勝手なことを思うのだろうと反省する。

 その繰り返しの中で、淋しい家に住んでいる。

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